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アメンティーの「生」と「死」という対比

無限脳の世界の案内人、里華です。

お盆というこのタイミングで考えた、
生きることと死ぬこと。

 

私たちが暮らす3次元の世界は、
二つの対極から成り立っている。
「生」と「死」という対比も、その一つ。

 

死について知るべく、
エメラルドタブレットに描かれている、
アメンティーの「死の広場」へと向かった。

死の広間は、その名前とは裏腹に、
なんだか光に満ちていて、
あくまでも明るいところなのだった。

「3」の主が現れる。

タブレットによると、
死の広間の創始者である「3」の主は、

「人の子らの魂を死の暗黒にて縛る」という。

 

早速、「3」の主に生と死の意味を聞いてみた。

すると一言、「意味はない」。

え!
それでは、この世に死があるのは、なぜ?

3の主
「物理世界で光の波として存在する際の体験を濃くするためにある」。

秤光と闇

3次元は、時が支配する世界。

時があるからこそ、
生もあり、死もある。

時が来れば種が芽吹き、成長し、花が咲き、

実をつけ、やがて枯れるように。

 

試験前に必死に試験勉強をするように、
死という区切りがあるからこそ、

その前の生と真剣に向かい合える。

闇が濃くなれば、
光がより際立って見える。

 

3の主はさらに教えてくれた。

「生と死自体には意味はないが、生と死を通じた体験が大切なのだ」と。

 

私たちは体験をするためにこの世界に生まれてきた。

 

どんな体験をするかは、私たち次第。

シェイクスピアだかプラトンだかの言葉、

「人生は舞台」という格言があるけれど。
死のホールは、
まさに生と死という二極性を生きる

人生劇場での出番を待つための、
楽屋のようだった。

次なる舞台に向けて、
配役を決めたり、
脚本を決めたり、

出演を無事終え、しばし休憩したり。

 

この世界では、死は忌むべきもの、悪いもの、恐れ、悲しみといった

ネガティブなものと考えるのが普通だ。

でも、本当は、生と死は別々のものではなく、

一つのものだ。

 

生と死は表裏一体であり、「

全てが在る」という世界では、

スポットライトをどちらに当てるかによって、
生とも死ともなる。
平たく言えば、

死んでも存在が消えるわけではないということ。

空の月は新月にも満月にもなるけれど、

新月の夜に月がなくなるわけではないことと同じ。

見るものの角度によって、その姿は変わるだけ。

singetu

死は生を孕み、生は死を包む。

私たちの身体の細胞は、毎日おびただしい死と新たな生を繰り返している。

食べる物も、自分以外の何かの死を身体に摂り入れていること。

つまり、私たちは毎日、死を食べているのだけど、

実は、その食べ物の持つ生命力を身体の中に入れて、

身体のエネルギーに変えているだけ。

動物性のものでも、植物性のものでも、それは同じこと。

「全てが在る」世界のエネルギーのカタチがぐるぐる変わっているのだ。

 

でも、死と生という二元性を体験し、理解しない限り、

この「全てが在る」という世界はわからない。

闇と光という対極なものがお互いを映し出すが、

その闇も、元々は無からの光からできている。

 

今の私にできるのは、月を見ては闇に隠れた部分を見つめ、

枯れゆく花を見ては、この先芽吹くタネを想い、生と死のダンスの体験を重ねること。

そうすれば、主の教えてくれたことが本当の意味で自分の真実となるだろう。

 

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