サイババ71歳御降誕祭の講話 Part1より
ババの愛は奉仕服従と言う特徴があるー2
従来の奉仕と服従と帰依の理解を新たなものにするため書き出してみた。
古の聖典やヴェーダの知識の学者であろうとも
大邸宅や宮殿に住む支配者であろうとも
武勇に秀でた戦場における無類の勇者であろうとも
圧政に虐げられた何も持たない貧困者であろうとも、
愛がなければ、人は役に立たない。
それだけではなく、
支配者や王に神愛と愛がなければ、
愛のある召使いの方がはるかに優れている。
この神聖な国には、
不活性な鈍性の石さえも完全に目覚めさせ、
踊らせることのできる人々がいる。
戦場で敵の頭と戯れる人々がいる。
ボールのようにはね上げて政権分野において、
この国をすっかり効率よく統治できる人々がいる。
それが何の役に立つのか。
私たちは見捨てられた人々の叫びや
不幸に耳を傾けようとしない。
彼らの不幸と悲しみに耳を傾けることとは学ばねばならない。
愛の化身である皆さん、
全世界は愛でいっぱいです。
愛は富です。
愛は正義です。
愛は真理です。
全世界はこの愛によって決まります。
人は愛の性質を知ることができません。
人は束の間の気まぐれや思いつき
一時的な世間のやり方に夢中になり
永遠になる神性を忘れています。
その理由は何でしょう。
利己主義がはびこり増え続けていますが、
霊性は衰退しています。
狭いところは増えていますが、
寛大な心は減っています。
欲望は増大していますが、
理想は減少しています。
人間の有り様は初めから終わりまで
身勝手さと私利私欲に費やされています。
古代の聖たちは、
犠牲の精神を王冠に頂いていました。
飾られていたのは正義だけです。
王冠についていたのは犠牲だけです。
聖たちは犠牲を歓迎していました。
この神聖な地球の国で、
神性が忘れられています。
そのため、
全世界は問題や動乱や不安でいっぱいなのです。
実際、愛のない心は不毛の時です。
愛は聖なる神性を表明し行動で示します。
この愛はいたるところに浸透しています。
この愛は人類をひとつにします。
利己主義が捨て去られ、
私たちが目覚め隠れている神性が輝く日、
この世界は1つになるでしょう。
それ故、すべての人は心を
愛で満たさなければなりません。
神は愛
愛は神
愛と愛の結びつきだけがあるべきだ。
自分の愛を強めれば
人は不二一元の状態を
楽しむ資格を手に入れる。
今日最も重要な事はすべての人が
アートマと愛の性質を知り
それに従って行動することです。
上向きな時も、
下向きの時も、
あらゆる時に
愛がなければなりません。
仕事の中でも、
食事の中でも、
執着の時も、
無執着の時も、
私たちの振る舞い、行動、
言葉の中に愛がなければなりません。
心の中にも、
私たちの住居の中にも、
倫理にとらわれている時も、
解脱した時も、
あらゆる場所に浸透しているのも
愛です。
すべての人がこの真実に
気づいているわけではありません。
悪い考え方や
悪い活動追い払うために
愛と言う武器だけが、
現場の様々な問題を
解決してくれるでしょう。
人々は神の神聖な愛を
体験するために、
正しい道に沿って
歩んでいません。
愛は種子です。
枝を張るのは愛です。
そして、
繰り返し枝を落とすのも
この愛だけです。
愛は花です。
そして果実も、
まさにその愛です。
ですから、
愛の果実を味わい、
楽しむために私たちは
愛の道を歩まなければなりません。
それ故、
すべての人が愛とは何かを知ろうとすべきです。
しかし、昨今の人々は
金銭的な利益を求めています。
昨今の人々は、
お金と地位のために必死に努力しています。
お金と地位は確かに必要です。
しかし、それらには
一定の限度があるべきです。
広大な海でさえ、
その限度を超えれば不評を買い、
面目を失います。
人間の身体と心はとても大切ですが、
適度な量の食物を取る必要があり、
そうでなければ健康を損なうでしょう。
食べ過ぎれば、
消化不良と吐き気に苦しむでしょう。
人はパーン(ペテールの葉で包んだもの)を噛みます。パーンにはライムが必要です。ライムの果汁を混ぜなければパーンではありません。しかし、ライムを加えすぎれば、当然、酸味が強くなりすぎます。
ですから、
あらゆるものは一定の限度内で用いなければなりません。
目に見える束の間の世界では、
あらゆるものに一定の限度があります。
しかし、愛に限度はありません。
愛は言葉で説明できません。
ナラーダ仙も様々な方法で愛の精神を語りました。
それ故、私たちの人生にエッセンスを与えるのは愛の流れです。
愛を手に入れるには、
どのような道を歩むが良いのでしょう?
愛は、瞑想や苦行によって
手に入れることができません。
聖典を詳しく学んでも
手に入れることができません。
神はヴェーダの中にはいません。
叙事詩の中にもいません。
瞑想の中にもいません。
苦行の中にもいません。
神は人の心の中に住んでいるのです。
ゆえに、私たちの心、
思考する心をまっすぐ
良心に向けなければなりません。
今日、私たちは口を閉じて
心を開かなくてはなりません。
そして初めて、
皆さんは至福の境地を楽しむでしょう。
皆さんは愛の化身そのものであるのに、
どうして愛を手に入れたがり、
愛を所有したがるのでしょうか?
愛を手に入れるために、
瞑想や苦行に頼る人もいます。
彼らは聖典を詳しく学べます。
何度も繰り返して読みます。
それらは皆、身を飾る宝石であっても、
原初の創造性ではありません。
学識は装飾品です。
聖典を学ぶ事は宝石です。
宝石は外側の美を与えますが、
内側の美は与えません。
内なる至福の境地は、
愛の道を通して初めて得られるのです。
今日、愛は完全に失われています。
今、愛のあるべき場所に憎しみがあります。
真理のあるべき場所に利己主義があります。
慈悲のあるべき場所に無益な嫉妬が居座っています。
これらの性質と神聖な気高い徳が
正しい場所に収まれば
私たちの靈人(ヒト)的特質が輝くことでしょう。
愛の化身であるあなた。
人間の性質は愛の人生であるべきです。
もしあなたにこの愛があれば、
不可能な事は何もありません。
あなたは必ず、
愛によって
あらゆる形の富を手に入れることができます。
また愛によって地位も得ることでしょう。
勝利を得るのは愛なのです。
では、どんな種類の愛でしょうか?
神に祈る時、私たちは
全託の精神を持たなければなりません。
今日全託の精神が欠けています。
もしあなたが神を手に入れたいなら、
実際に、もし本当に
あなたが霊的に飢えているなら、
もし本当にあなたが霊性を渇望しているなら、
愛の道に沿って歩むようにしなさい。
実際には、あなたは飢えていません。
渇いていません願望を持っていません。
あなたはただ望んでいるだけで
それを強く握り締めていません。
ただ水が欲しいと言うだけでは
喉の渇きを癒されません。
あなたは実際に自分の手のひらで
水をすくわなければなりません。
その水を飲むなら、
あなたの渇きは癒されるでしょう
もしあなたが霊的に飢えているなら、
神の恩寵を得るため
懸命に努力すべきです。
そうすれば、
あなたの渇きは癒されるでしょう。
あなたの飢えは満たされるでしょう。
一方、あなたが怠けたままでいて、
それでも至福を熱望し、
神が満たされると思うならそれは不可能です。
ここを利己主義で満たすのであれば、
霊的探求や目的を果たす事はできません。
それ故、今日私たちが望むべきものは愛です。
愛には姿形はありません。
愛は説明できません。
愛は言葉の描写を超えています。
あなたはただ愛を体験できるだけです。
この愛に近づけば近づくほど、
あなたの飢えは癒され満たされるでしょう。
現代の世界の困難や問題は、
愛がないために起こっています。
もちろん愛は存在します!
しかし、
今、存在している愛は肉体に限定されており、
利己的なのです。
今日、人々には肉体意識しかなく、
神性な思いがありません。
自分たちが身に付けた肉体という衣装に頼り、
土台を忘れています。
土台のことを考えず、
その上に建てられた姿形に頼っているのです。
基盤となるもの、
主要な土台は、愛です。
それはどこで生まれるのでしょう?
それはどこで終わるのでしょう?
愛は奉仕、服従、と言う特徴から始まって、
アートマとの完全な自己同一視で終わります。
この服従の精神がなければ、
神性を体験することはできません。
我は神なりは愛です。
実際、私はアートマです。
アートマは愛です。
アートマはブラフマンです。
アートマは真理です。
バットマンは正義(だるま)です。
そして愛と言う形で体験されるのは
その同一のアートマンなのです。
地上には、人生の4つの主要な目的
「正義、富、欲望、解脱」があります。
人はこれら
四つの目的を軸に人生を送り、
五番目の目的を忘れています。
人生の五番目の目的は
愛という至高の境地です。
愛によって、
皆さんは何でも手に入れることができます。
愛があれば、
どんな憎しみの余地もありません。
愛のあるところに妬みはありません。
愛がある所では、
どんな悪い行為、
どんな悪い考え、
どんな悪い思い、
悪い感情も心に抱くことができないからです。
一度それらの悪が存在すれば、
愛はそこから逃げ出すでしょう。
人が座るのを許される椅子は
1つの椅子だけです。
人間の心は1つです。
その人の愛が良心に着席すれば、
他の性質は座りに行くことができません。
それ故、心はすっかり安定します。
そうなった心は優しく無私無欲で
純粋です。
しかし、愛の中心であるその心が
椅子取りゲームに変わっています。
今日はこの神、
明日は別の神、とあなたが神を変え続けるなら、
ひとつの御名繰り返し、
明日には別の御名を思うなら、
どうして愛を期待できるでしょう?
ひとつの事は、
ひとつの道です。
どんな状況の下でも、
私たちは心をたった1つの
椅子であると考えるべきです。
なぜ人はあらゆる病気にかかるのでしょう?
日毎に肉体的な欲望が増えているからです。
今日人は無意味な欲望を抱いています。
人は自分自身の安定と繁栄を祈りますが、
世界のためには祈りません。
社会はとても重要です。
国がとても重要です。
私たちは社会の安定を保ちながら
行動しなければなりません。
社会がなければ個人は反映できません。
個人とは誰でしょう?
愛の力を手に入れた人です。
世界を一つにするのは愛の力です。
何千人もの人がここに集まっている理由は何でしょうか?
愛がその主な理由です。
愛がなければ、
あなた方はここに来ていなかったでしょう。