1つの物語に耳を傾けてほしいーーー。
ある日のこと、1人の無神論者が絶壁の縁を歩いていて足を滑らせ、縁ら落ちた。
落ちながらも、彼は岩の割れ目から生えていた小さな枝に何とか捕まった。
そこにぶら下がり、冷たい風に吹かれて揺れながら、彼は自分の立場がどうしようもなく絶望的だということがわかった。下を見てもゴツゴツした岩ばかりで、上には登りようがなかった。
枝につかまった手からは力が抜けかけていた。
「こうなると」と彼は考えた
「もう助けてもらえるのは神しかない。
私は神を信じたことなど1度もないが、
私が間違っていたのかもしれない。
失うものなんか何もありはしないのではないか?」。
そこで、彼は大声で叫んだ。
「神様!いらっしゃるものなら私を救ってください。
そうしてくだされば、あなたを信じます!」。
答えはなかった。
彼はもう一度呼びかけた。
突然、大いなる声が雲間から轟いた。
「いや、お前がそんなことをするはずがない!
お前みたいな奴の事なら知ってるぞ!」
男はすっかり驚いて、
危うく枝を放すところだった。
「お願いします!神様、あなたは間違っています!
私の言葉に二言はありません!私は信じます!」
「まさかお前がそんなことをするはずがない!
奴らはみんなそう言うだけだ!」
男は懇願し、説き伏せた。
ついに神は言った。
男は驚きの声を上げた。
無神論は常に臆病だ。
本当に勇気のある人物は宗教的になるほかはない。
そして、宗教的な人物には必ず勇気がある。
だから、臆病な人物が宗教的であるのを見かけたら、
何かが間違っていると思って構わない。臆病な人物は宗教的にはなれない。その宗教は防御、鎧以外の何物でもない。臆病な人物の「イエス」は愛と勇気から出て来てはいない。
その「イエス」は恐怖から出てきている。もし「ノー」と言うことが可能だったら、彼は「ノー」と言っただろう。その「イエス」は、死がそこにあるから、病がそこにあるから、危険がそこにあるから来ている。だから彼は「何をしなうと言うのだ?なぜ信じない?なぜ折らない?」と考える。
彼の祈りはインチキだ。彼の祈りは恐怖の表れに過ぎない。恐れから、彼は寺院に行ったり、教会に行ったり、聖職者のもとに行ったりする。
(ラジニーシ)