《無》から出てくる感応こそ瞑想のすべてなのだ心が集中すると,それは過去から作動する
瞑想は現在の中で,現在から作動する。
それは《現在》への純粋な感応なのだ。
それは反応じゃないそれはいろいろな“結論、
過去から作動するのじゃない
それは《実存的なるもの》を見ることによって作動する
自分の人生を観察してごらん、
あなたが結論から動くときにはひとつ大きな違いがあるものだ。
歩いていても
夢見ていても
坐っていても
話していても
聞いていても
それは一種の〈空気〉に
ならなければならない
くつろいでいる人は
その中にとどまる
〈過去〉を落とし続ける人は
瞑想的なままでい続ける
前回の瞑想とはこちら
▲あなたというのはあなたの過去を意味する。
あなたというのはあなたの過去の経験すべてを意味する。死せるものに生けるものを支配させないこと、過去が現在に影響を与えるのを許さないこと、死があなたの生を圧倒するのを許さないこと。それが瞑想の何たるかだ
瞑想には瞑想の中にはあなたがいない、
死せるものが生けるものを支配してはいない。
この“瞑想”という体験は、
あなたに自分の生を生きる
ひとつまったく新しい質を与えてくれる。
そういった種類のものだ
“それゆえに,おおシャーリプトラよ,
菩薩が知恵の完成に依って,思考の被覆なしに住するのは,
彼の無達成のたまものである。ひと言ひと言が瞑想されねばならない。
集中じゃない
注意しておく
瞑想され,
耳を傾けられ,
のぞき込まれねばならないのだ
“彼の無達成のたまものである”と言う
瞑想は達成され得るものじゃない、なぜならば,瞑想は動機を持ち得ないからだ。あなたが何かを達成するとき、
それはひとつの動機を通じての達成だ。何かを達成するとき
あなたは必ず未来のために働き、未来のために計図しなければならない。何ひとつとしていまのいま達成できるものなんかない。
くり返させてほしい
あなたがいまのいま達成できるものなど
何ひとつとしてない
瞑想を除いては一一
唯一瞑想だけがいまのいま
真にこの瞬間に,
即時に達せられ得るものだ
なぜか?
それは,それがあなたの本性だからだ
なぜか?
それは,それがもうすでに
そこにあるものだからだ
あなたはまだその権利を主張してはいない
その通り
だが,それは主張されないままに
依然としてそこにある
ニルヴァーナ(浬菓〕とは
瞑想の環が完結したもの
以外の何ものでもない
《神》とは
瞑想のつぼみが
花となったもの以外の
何ものでもない
これらは達成じゃない
これらはまさにあなたの
リアリティーそのものなのだ
あなたは幾年月にわたって見のがし続け、
幾年月にわたって無視し続けることもできる。
だが,それらをなくすことはできない
純粋な無規律,
無碍自在のその状態こそ
瞑想の何たるかなのだ
瞑想は《現在》
純粋な《現在》の中にある
瞑想は即時だ
瞑想することなどできるものじゃない
集中の中にはいられない
だが、あなたが集中することならできる
“集中”は人間的なもの
“瞑想”は神々しい
瞑想が在るためには
心が消えなければならない
集中というのは心の努力だ
瞑想というのは
ひとつの無心状態を言う
瞑想とは純粋な覚醒だ
瞑想はその中に
何の動機も持たない
瞑想とは
極なしに生えてくる樹だ
それが瞑想の奇跡なのだ
瞑想は何の目的地も持たないものだから一一
瞑想とは
一切の目的地が虚構だというひとつの洞察にほかならない
瞑想とは
さまざまな欲望がどこにも
導いてはくれないという
ひとつの理解なのだ
瞑想の中では
あなたはひとつの中心から
機能したりはしない
あなたは《無》から作動する
(無〉から出てくる感応こそ
瞑想のすべてなのだ
心が集中すると,
それは過去から作動する
瞑想は現在の中で,
現在から作動する
それは《現在》への純粋な感応なのだ
そしてどんな観念にも,
リアリティーを遮ること
事実を遮ることを許さないとき
ただその事実をのぞき込み
そのひと目から行為するとき
それが瞑想なのだ
瞑想というのは何かあなたが朝やって
それでもういいというようなものじゃない。
瞑想とは,
あなたが自分の生のあらゆる瞬間
生き続けなければならないような何かなのだ
あなたというのはあなたの
過去の経験すべてを意味する
死せるものに生けるものを支配させないこと
過去が現在に影響を与えるのを許さないこと
死があなたの生を圧倒するのを許さないこと
それが瞑想の何たるかだ
つまり,瞑想には
瞑想の中にはあなたがいない
死せるものが生けるものを支配してはいない
この“瞑想”という体験は
あなたに自分の生を生きる
ひとつまったく新しい質を与えてくれる
そういった種類のものだ
実存的瞬間とはいまのいまだ
ちょっと一目見てごらん
そしてそれが瞑想なのだ
その一目こそが瞑想なのだ
ただあるひとつのものの
あるひとつの状態の事実性を
見ることこそ瞑想なのだ
瞑想は何の動機も持たない
したがってそれには何の中心もない