「目」が私の中にいることが愛おしくてもう夢中になりそう。もう可愛くて仕方がないペットと常に一緒にいるという感覚。もう愛が溢れてくる「メーちゃん」ずっとここにいてね。私とずっと一緒にいてね。
私と、私の中にある目とのそんな関係性のように、『源は私を愛している。私が愛しくて仕方がない』のがよくわかる。
「目が継続性になっている」という状態を、好き八景で味わい、確認し、同意しようとしていた。この状態が継続性となってほしい 源と繋がった状態でずっと生きていけたらという願望をようやく手に入れたのだ。
どうやら目はもっと意識して欲しかったらしく、「目」と言ったら目がその存在を主張してきた。
私の中に目がずっといる。同居しているペットのように。もう可愛くて可愛くて、とても大切で、私よりも大事にしたい、愛すべき存在。
この空間に好きにいて、好きに動き回ることが許されていて、それを見ている私は嬉しくて仕方がない。「次は何をしたいの?どんな遊びをしたいの?」と、愛を押し付けているようだ。そして一挙手一投足の動きを楽しんで見ている、まさに自分の内面に宿る「源」を完全に表現しかいかのように。
源も、そんなように私に多大なる関心を持ち、愛を押し付けている。
私は子どもを産んだことはないので、ペットを例えにしたが、子を持つ親ならきっと我が子に抱く思いと同じようなものだろう。
それを強く感じている。
私の中にある目は二つ。
大きな目は源であり、その中心に小さな私という目が存在している。
大きな目の中に小さな目があり、お互いがヒヒキあっている。小さな焦点の目から放たれた望みが、波紋のように大きな目に広がっていく。そして大きな目の端にぶつかって大きな目から、小さな目の中心に向かって、また波が返される。
そうやってこの二つの目はヒヒキあって循環している。望みはそのことではっきりと明確になっていく。形になっていく。
これを見続けることで継続性ができたハートの目に愛しさが増すと、松果体にある目も反応し、そこから源である大きな目に繋がっていく。
それはまるで植物が育っていくように大きな目は肥沃な土壌で、小さな目は創造の種。基盤。そこに小さな目の創造の種を植えることで、大きな目がそれを育ててくれる。育つための全ての要素を供給してくれる。
小さな目である私はただ喜んでいるだけ。その成長を楽しんで体験する。
そこに濃密な天界の壮大な舞台があった。
それを夢見れば夢見るほど、
抱き入れれば抱き入れるほど 、
自分という神秘が解き明かされていく。
大海の潮の流れのように、もう継続的に創造がどんどん生まれてきて、創造したくて仕方がなくなる。
夢見ることを抱きいれると、大きな目と小さな目の私が交信し、全てを集めてうねり、渦を起こしていく。
この空間場にいる意識はみんな偉大な創造に関わりたい、遊んで、楽しみたいと思っている。
自由で歓喜に満ちたこの波動は、その全ての存在が集まって起こされた聖なる波動。ひとりでに、主やヒカリミ、その他諸々の存在、登場人物が動き出して踊り出してくる。八百万の神のように。それに私は自由を与えている。私が自由を与えることでそれが起こる。
私は宇宙劇場の監督であり、そして主役であり、全ての主、存在が私の意識なのだ。
そして、全ての意識が継続して動くことで、その空間が、地球が豊かに生い茂る緑で満たされるように、はっきりとした形あるもので満たされてゆく。生命あるものであふれ、すごく賑やかに創造しくなっていく。
空間場がもういっぱいなので、さらに広がっていき、それを繰り返し 空間場は拡大成長していく。
これが、目が永遠に動き続け存在し続けていくための継続性そのものとして私のものとなった瞬間であった。
つまり、目とは、
私の創造の意識そのものなのだ。
そして、
創造のはじまり、種である小さな目は、このときから「愛しいメーちゃん」として私の中に同居することとなった。
「メーちゃん」は、源である大きなの目の中で見守られ存在している。