日常でどれだけ無意識に言葉を使っているのか、思い通りにならないことに、また、望み通りになったことにどれだけ言葉が力を持っているのか…5の魔法の主と会うまで、ここまで真剣に考えてきたことはなかった。

今は辞めているが、以前、私は長らくコピーライターとして言葉の世界に関り、「言葉」はいつも私を捉える大きな関心事であったが、ここ何年かは別の仕事に携わっており「言葉」への興味は薄れていた。それが、松果体講座をはじめてから「エメラルドタブレット」に取り組むようになり、再び「言葉」への関心が甦ってきた。さらに深淵なる意味を帯びて。

「光を送り出せる秩序は、わがことばにして、我がことばより生命が来たり、すべての存在が来るなり」

「汝の内なる生命はことばなり。汝の内なる生命を見出し、我がことばを使わんための諸力をもつべし」エメラルドタブレットには、ことばがすべての根源であり、言葉の重要性が書かれていた。

「魔法の言葉」それを使って、望み通りの人生が生きていけたらどんなにいいだろうか。それを使いこなしたい、それを使いこなせたら、なんと喜びに充ちた人生となることだろう。私の心の奥底から湧き上がる言葉を、自由に表現して生きていきたい。私はそれを渇望していた。

それは、つまり自分自身の「言葉」が不自由であることを物語っていた。なぜなら、仕事では「言葉」に対して抵抗がないのに、自分自身に対して使う「言葉」にはすごく抵抗があり、卑下したり、小さく見積もったり、ネガティブな言葉を使っていた。

「どうせ無理だろう」「できない」「私にはそれだけの価値がない」自分に対して使う言葉はとても酷いものだった。

「言葉」への探求。
それは、必然的に「自分」というものの認識が変わる旅となった。

思い起こせば 小さい頃から、家族の中で自分や相手を卑下したり、価値を貶める言葉が日常的に使われていた。そんな中で自己価値が低く育っていった。

でも、心のどこかで「自分はこんなものではない」とも思っていると、自分を励ましてくれる心の言葉がいつもあり、それに励まされて生きてきた。

本や雑誌で見た言葉、誰がかけてくれた言葉。勇気がでたり、励まされたり、生きていくことの美しさや希望、可能性をあらわす言葉はきらきらと光っていて、私の心を捉えた。今になって思えば、価値を見いだせなかったからこそ、反対にその価値を示してくれる「言葉の力」に心揺さぶられ、それは、輝いて見え、「言葉」への関心が生まれていったのだった。

思春期の頃には、その思いは溢れるようになり日記を書いたり、自分の思いを「歌」にして歌うようになった。最初は恥ずかしかったが、人前に出ること、表現することで、周りの人が褒めてくれ評価されたことで、自己価値が少しずつ上がっていった。社会に出て一般的に仕事に就いたが、「言葉への思い」は募り、いつしかそれが「コピーライターになりたい」という夢になり、気が付けばその道についていた。

このときは絶対にコピーライターになれるという確信が深いところにあった。迷いなく、これが私の仕事。天職だと思ったのだ。しかし、「言葉」の世界はあまりにも奥が深く、困難であって何度も「もう、いや!」「私には才能がない」。と、匙を投げそうになり、背を向けそうになったことは何度もあった。

言葉への探求は、また同時に精神世界への探求でもあり、心に届く言葉を求めれば求めるほど、自分自身の心の内深くへと導かれていく。仕事ではポジティブな言葉を使っているが、一方で人生では、言葉に傷つき、惑わされ、言葉の持つネガティブな力にも疲弊していた。言葉は「力」があるだけに、それに振り回されていたのだった。

「かえって言葉があるから、ややこしくなるんだ!」

そう思うこともあり、自分の人間関係では、言葉の力を上手く使えずにいた。

言葉の持つ力を上手く使って、
望み通りの人生を生きれていたら…。
もっと違う人生が展開していたことだろう…。


精神世界のことを勉強するようになってから、潜在意識というものがあり
言葉に出していなくても、心の中で使っている言葉、思いの強さ、それが、影響していることを知った。

たてまえだけで、本気度のないポジティブな言葉を使ったり、変えようとしてもかなか変わらない、思い通りにいかない理由は、そこにあると知って愕然となり、言葉のネガティブな力で人生が翻弄されていたことで 言葉に対して、あまり価値をおかなくなり、関心をなくそうとしていた。(投げ捨てようとしていた)そうすることで、効力をなくそうとしていたのだと思う。

いや、言葉の力を知っているだけに恐くなっていて、自分から見えないものにしようとしていたのだ。

愚かなことに言葉は思いであり、使う言葉はその通りになる。ネガティブな言葉を使えば、ネガティブな感情を感じる体験が起こり、また、曖昧な言葉を使えば、曖昧な結果しか起こらない。「これがあなたが望んだことですよ、はい、どうぞ」と、宇宙の法則はその通りに働いていたのだ。

自分の内側の世界に目を向けるようになると、どうして自分の人生がこうなのか?

潜在意識、無意識に関心を持つようになり、そこから、自分の人生をあらためて見つめることとなった。

人間は「神の子」と言われるが私たちは、自分と他人を比べ、自己価値を低くし、恐れの中で生きている。自分の心の言葉を見つめれば見つめるほど、神や人とつながりたい。一つになりたいという深い欲求が現れ出てきた。

そして、、エメラルド・タブレットの言葉の道に出合ったことで、言葉が何をしているのか、言葉とは何なのか…言葉と真剣に向き合うことになった。

「言葉の山に頂上に至れば、さらに次の頂が見えるようになってきた」。

言葉が良くなれば、良くなるほど、さらに核心へと求める気持ちは高まっていく。

「神」「根源」「宇宙」「無」「一なるもの」「創造主」「グレートスピリット」…

とさまざまな言葉で言われるもの。その存在とのつながりを体験すればするほどにその存在と、もっと強く、もっと深くつながりたい!という思いが強く湧き出てくる。

松果体=水晶球を活性化することで、自分自身の内側で宇宙とのつながりが起こることになった。感じるというのではなく、それは確実に起こっている「真実」として見え、そして体験が次々とやってきたしそこから、さらに水晶体が拡大し、ハートセンター、生命の華=太陽神経叢も共に活性化し、私の中で宇宙が拡大成長していく。

そして
「すべては自分自身。私と宇宙、源は一つ。創造は私を通して起こっている」と疑いなく知ることとなった。

宇宙の神秘が、次々と自分の中で明かされていく、驚きの体験の連続であった。そこから、思いもしなかった世界が広がっていく。そして、その体験を言語化することで、向こうから新たな扉を開く「キーワード」がやってくる。

創造のはじめに言葉がある。
広大無辺な無から、それは生まれ、認識され、

体験され、言葉になって、カタチとなっていく。
言葉は言霊(ことだま)。

コトを起こす霊(イノチ)そのもの。
ずっと私の中にあった「言葉の力」が、私の中で明確になっていった。それは、私自身のハートの奥の奥からの言葉とつながったことでもあった。

胸の奥から湧き出てくる言葉、それは命そのものであり、私の中であふれている命の存在を確かに感じる。

それは、求めていた「創造主」や「源」からやってくるものだった。。

私自身であるものの認識が変わることで、言葉が変わり、開かれていった。そして、そこから体験が変わり、さらに新しい言葉が生まれてくる。

それこそが「魔法の言葉」であった。

ーーー「私が、創造のはじまり」

だからこそ、意図的に、主体的に自分自身の言葉を使うことが大事であり、それこそが何よりもの自由であり、喜びであった。これまでは、心の内のことなど自信なく語っていたことも、曖昧な言葉を使うのではなく命の見える言葉を使うこととなっていった。

そのことで自分の意識、思考も整理され、物事が早くスムーズに進むことにもなり、周りの人に振り回されていると思っていたことも、自分の中心軸がしっかりとしてきたことで言葉=思いを明確にし、自分の人生では自分が中心になっていった。

仕事でも、欲しいものがタイミング良くやってきたり、ラッキーなことが次々と起こっている。

「魔法の言葉」—最初は隠されていると思っていた神秘も、創造の秩序や法則が見えるようになってきたことで、それは特別なものではなく、自然なこと、当たり前のこととなっていくよろこび、「魔法の言葉」は、いうなれば「自分に魔法をかける言葉」。

でも、それはうわべではなく、私自身の源のところからやってきて私の新たな意識の領域を開いていく言葉。それは、遠い遠い昔に鍵を失くして閉じてしまっていた扉をあけるような、自分自身の根源へと還る、新しくも懐かしい旅でもある。

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