もしあなたが
明け渡そうとしはじめるとしたら
あなたは依然として
分離というその観念を持っていることになる
いま,あなたは
「自分は明け渡すぞ是が非でも
明け渡してやるんだ」と考えている
だが,あなたは自分がいると
思い込んでいるのだ
分離というまさにその観念
そのものを見抜いてごらん
ある日,あなたは
自分が分離してなんかいないのを
見出すに違いない!
だとしたら,
どうして明け渡すことなんかできる?
そこに明け渡す人など誰もいやしない!
明け渡す人など一度だって
いたためしがないのだ!
そこに
明け渡す主体などいやしない
まったくいないのだ
決して見つかることはない
もし自分自身の中に
はいっていったなら
あなたはどこにも
明け渡す人など見つけられないだろう
その爵聞の中にこそ,
明け渡しがある
明け渡す主体が
見つからないその瞬間に
明け渡しがあるのだ
あなたがそれをやることはできない
もしあなたがそれをやるとしたら,
それはニセ物だ
ニセ物からは
ユセ物しか出てこない
あなたがニセ物である以上
あなたが何をやろうと
それはニセ物だろう
なおさらニセ物だろう
そして,ひとつの偽りは
また別の偽りへと
つながってゆき
それが果てしもなく
続いてゆく
そして根本的な偽りは
自我,
つまり「自分は別々だ」
というその観念なのだ
(ラジニーシ・般若心経より)