四番目は自己拡張
所属,所有だ
子供は自分の家や,自分のお父さんや自分のお母さんや,自分学校の話をする。
彼は“自分の”領域を拡げはじめる
“自分の”
というのが彼のキーワードになる
もしおもちゃを取り上げたりすると、彼はそのおもちゃにはたいして興味がないのに、「そのおもちゃは自分のだ、取っちゃ駄目だ! 」と言う方に興味がある。
覚えておきなさい
おもちゃにはさして興味がない。誰も興味を示さなければ、彼はそのおもちゃを隅っこに放り出して、おもてに遊びに抜け出して行くだろう。
ところが,ひとたび誰かがそれを取りたがろうものなら、彼はそれをあげたがらない。
それは“自分の”ものなのだ
“自分の”というのが
“自分に”という感覚を与え
“自分に”が
“自分”をつくり出す
そして,覚えておきなさい
こういう扉は子供たちだけのものじゃない。それは一生あなたにつきまとうのだ。自分の家と言うと、あなたは子供っぽいの。自分の妻と言うとき、あなたは子供っぽいのだ。
自分の宗教という時、あなたは子供っぽいのだ。ヒンドゥー教徒が宗教に関して回教徒と争いはじめるようなとき、彼らは子供なのだ。
彼らは自分たちが何をやっているのかわからない。彼らは本当には成熟もしていなければ,大人にもなっていない。
子供たちというのは,絶えず「ぱくのパパは世界ーのパパだ」などと言い張っている。そして,それと同じことを坊主たちは言い争い続けている。
「私の神の概念こそ最高だ
一番力がある
本物だ!
ほかのものはまあまあにすぎない! 」
こういうのはとても子供っぽい態度だ
ところが,それらは一生あなたにまとわりつく、あなたは自分の名前に非常な興味をお持ちだ。
私がみんなの名前を変えるとき、 何人かの人たちはとても頑固だ。 彼らはそれを望まない、何人かの人たちは私に手紙を書いて「私はサンニャースは取りたいのですが、どうか名前だけは変えないでください」と言う。
なぜか?
自分の名前一一ー
それは何か大変な財産のように見える
そして,
名前なんかに何もありはしないのだ
だが, 30年間. 40年間
あなたの自我はその名前でもって生きのびてきた
自我にとっては,ひとつの扉を閉ざすのはとても難しい。だからこそ名前を変えてみるのだ。名前など便宣上のものにすぎないということが分かるように、それはいつ何時にでも変えられ得る。
そして,私が何も大げさに騒ぎ立てないで、あなたの名前を変えてしまうのはそのためなのだ。ほかの宗教でも名前が変えられる。もしあなたがジャイナ教の僧侶になったとしたら彼らは大騒ぎする。
たいそうな行列や祝典が催される、誰かが僧侶になるのだ!さあ,彼はこの新しい名前にとても固執するようになるだろう。何ごとかと思うようなお祝いや、何ごとかと思うようなお祭り騒ぎ。
そして,何ごとかと思うような名誉や尊敬、何ごとかと思うような大騒ぎ。これでは肝心の要点が見失われている。
私はあっさりとそれを変えてしまう、あたり前のことのように。ちょっとあなたに,それは何でもないのだ、それは気紛れなものなのだ、それはごく簡単に変えられるものなのだという意識を与えてあげるために。
あなたは,Aと呼ばれることもできるし Bと呼ばれることもでき、あなたはCと呼ばれることもできる。
それは問題じゃない
実際のところ
あなたは無名なのだ
どんな名前だっていい
それはただの実用上のものにすぎない
{ラジニーシ・般若心経より}