五番目の扉は自己イメージだ

子供は物事やさまざまな経験に目を向けはじめる。肉親がその子に好感を抱いているときには彼は「自分はいい子なんだ」と考える。

彼らが頭を撫でてくれるときは、彼は「自分はいい子なんだ」と感じる。彼らが怒りを含んだ目で見るとき彼らがどなりつけるき。そして,彼らが「そんなことをしちゃいけません! と言うとき

子供は「自分のどこかがいけないんだ」と感じる。彼は後ずさりする。


小さな子供が,学校に入学した初日に聞かれた「あなたの名前は何ですか? 」彼は言った「ジョニーいけまぜん」

先生はわけがわからなかった「ジョニーいけません?そんな名前開いたことないわね!」

彼が言うには「いつ何をやっていてもこれがぼくのお母さんが叫ぶ名前なんです。『ジョニーいけません! 』お父さんもどなります『ジョニーいけません!~




だからぼくはこれが自分の名前だと思っているのですいつでもいけません”がくっついてるんですから何をやっていようが関係ないんです」



五番目はそこから道徳、がはいってくるところの扉だあなたは道徳家になるあなたはとてもいい、気分になりはじめる「自分の方が上だ」ーーあるいはまた欲求不満だったり,抵抗したり,もがき苦しんだりするとあなたは不道徳人間になって、全世界と争いはじめ世界に見せつけようとする。


ゲシュタルト療法の創始者である。フリッツ・パールズが彼の一生の仕事のまさに基盤となったある体験について書いている。彼は精神分析医としてアフリカで開業していた。そこでは彼がただひとりの精神分析医だったので商売はとても繁盛していた。彼は大きな車や庭園やプールつきの大きな屋敷を持っていた。

とにかく平凡な心が持ちたがるものは何もかも、中産階級の賛沢だ。ちょうどその頃彼は世界精神分析会議に参加するためにウィーンへ行った。もちろん彼はアフリカではそれほどの大成功をおさめていたから、当然フロイトが自分を認めてくれる大歓迎してくれると思っていた。

そして,フロイトは精神分析医たちにとっては父親的な位置を占めていた。つまり,彼はフロイトに頭を撫でてもらいたかったのだ、彼は論文をひとつ書いてそれに何か月という時聞をかけた。

フロイトに自分が何者かを知ってほしかったからだ。彼は論文を読み上げたところが何の反応もなかった。フロイトはとても冷たかった、ほかの精神分析医たちも非常に冷たかった。彼の論文はほとんど認められずじまい誰の口にものぼまらずじまいだった。彼はひどいショックを受けた意気消沈してしまった。

が,それでも彼はフロイトに会いに行けば何か起こるかも知れないと望みをかけていたそこで彼はフロイトに会いに行った。すると,彼がほんの玄関の階段のところにいてまだ敷居もまたがないうちにふと見るとフロイトがそこに立っていた。

そこで,彼はフロイトにちょっと印象づけるつもりで「私は何千マイルも遠くからやって来ました」ときりだした。すると彼を歓迎するどころかフロイトは「で,いつ帰るの?」と言うそれが彼をひどく傷つけた、いくら何でもこんな歓迎のしかたはない「いつ帰るの?」一一そしてそれが会見のすべてだった。

お終い!


彼は踵(きびす)を返すと頭の中でマントラのように絶え間なくくり返していた。「目にもの見せてやる目にもの見せてやる目にもの見せてやる」。そして,突際彼は目にもの見せようとがんばったこれは精神分析に対立する大運動を起こした。

それがゲシュタルト療法だ。これは子供っぼい反動だ。子供が受け容れられると彼は気分をよくして,両親の望むことなら何でもやろうとする。

もし何度も何度も欲求不満にさせられると、そのときには彼はこんなふうに考えはじめる。ぼくが彼らの愛を得られる可能性は何もないだけど,それでも彼らの注意を引く必要がある。

もし正しい注意の引き方ができないんなら、間違った引き方をしてやる。こうなったらタバコを吸うぞ、自慰をするぞ、自分にも他人にも害をなしてやる。


そして,彼らが『やるな』と言うことなら何でもいい。あらゆる種煩のことをやってやる。とにかくぼくのことで手一杯にさせておくんだ、彼らに思い知らせてやる」。


これが第五の扉

自己イメージだ罪人と聖人はそこに引っかかっている。天国だの地獄だのというのは、そこに引っかかっている人たちの思いつきにすぎない。

何百万という人たちが引っかかっている。彼らは絶えず地獄を恐れ絶えずがつがつと天国に欲を出している。彼らは神様に頭を撫でてもらいたい。そして,彼らは神様に「お前はいい子だ,わが息子よ」だの「私はお前に満足しているぞ」だのと言ってもらいたい。

彼らはただ生と死を越えたどこかにある何かの幻想に頭を撫でてもらうだけのために自分たちの生を犠牲にし続ける。彼らはただ神様が「なるほどお前は私のために自分を犠牲にした」と言えるようにするだけのために千と一つの拷聞を自分自身に課し続ける。

まるで神というのはマゾヒストかサディストか、何かそんなものであるかのようだ。人々は神を喜ばせるという考えでもって自分自身を責めさいなむ。

これはどういうことだろう?あなたは断食をしてそれで神があなたに満足すると思い込むあなたは自分自身を飢えさせてそれで神があなたに満足すると思うのか?

神はサディストかね?
人々を責めさいなんで楽しむのかね?

そして,それが聖人たちいわゆる聖人たちがやってきたことだ。自分自身を責めさいなみ、空を見上げて遅かれ早かれ神様がこう言ってくれるのを待っている。

「いい子だよくやった、今度はこっちへ来て天上の快楽を楽しむがいいこっちへおいで、!ここでは川にワインが流れ道は金でできていて宮殿はダイヤモンドでできている。そしてここの女たちはけっして歳を取らない。彼女らは16歳のまま止まっているここへおいで、お前は充分やったお前はそれだけの点数をかせいだ今度は楽しむがいい」

ん?犠牲というものの背後にある考え方すべてがこれだ。これは馬鹿げた観念だ、なぜならばあらゆる自我の観念というのはみな馬鹿げているのだから




《ラジニーシ・般若心経より》

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