ヒマラヤ聖者の言葉とともに 床につく
「一者」をミルことで、その潜在は次々と展開されていく。
「ヒト」というウツワにおいて「一者」を見ることで、根源者のユメがヒトにウツサレエガカレてくる。そして次々と一者が形を変えて外側にアラワされていく。
(一者の中にはすべてがすでにあるから。)
言葉も映像も、エガカレテくる。それらをヒトが「覚」することを通じて外に現れる。
職場で食器を洗いながら、「みるものとみられるものがあって、その違いがあって、イマ、このモノ・コトの場は発生しうる。
イマというこの「場」は、みるものとみられるものがあって、互いに存在を支え合って成り立っている」と感じる。
台所で小豆を炊いていたが途中でそのことを忘れて別な部屋で作業をしていた。「焦げた匂い」がしてきたおかげで、小豆を炊いていたコトを思い出し、急いで火を止めにいった。
「匂い」を通じてそれが存在することを知ることができた。
これと同じく、ホアは最初に自身に対して「何かある」ことを感じた。
三次元の言葉で表現すると「なんだこれは!知りたい!みたい!」という衝動・情動だけがある。
そして根源者はその「覚」を発展させていった(自然にその「覚」が展開発展していった)。
根源者は自分自身を感じて(自分を「覚」して)楽しんでいる。「覚」をどこまでも追求している。根源者が自分自身を「覚」したから、その瞬間に「覚するもの」と「覚されるもの」ができた。
(1が2になった。1は2ができて初めて存在となる。2ができて初めて、1は、1という「存在」となった。)
一者だけだったものが、「1」と「1」で存在が「2」になった。(存在が「2」あり、1を持つがゆえに、「覚」が起こる)
覚するもの。覚することで、その覚されたものを存在として存在させる(顕現させる・維持させる)ことができる。
『覚』したいものを存在させ続ける。根源者は快(などの愛の要素)の総体。だからそれにぴったりのものを、存在させ続けている。
「うーん、これ私じゃないから、もっと私にピッッタリを作ろう」。『覚』を通じて、自分らしいものを創造し続けている。
根源者はそれのバリエーションを作っていった。ヒトも、『覚』によって存在しうる。根源者が覚しているから。選んで存在させるもの。
根源者が自身の中に感じた『覚』(何か存在しているぞ!)が、次々と発展して行き、その『覚』は、ヒトにおいて様々なバリエーションになっている♪
皮膚:触覚・触感
– 目:視覚(物体・視界が入る)
– 鼻:嗅覚(香り・空気の行来)
– 耳:聴覚(音・声)
– 口:味覚・食感覚(食物))
– 心:感情を感じる
これらはすべて「アナ」である(出口であり入口)。これらのアナ(の覚)を通じて体は作られている = ホアは「覚」を通じて三次元に躍り出ることができる。
『覚』することで、存在というカタチをとることができる
ラムサ「創造と進化」で語られている、「一輪の花の生命やその美しさを堪能するものがいなければ、その花には一体何の存在理由があるというのか?
あなた方がいなければ、それは意味がなかったであろう」の意味がわかった!
「花を見る(覚する)存在」がいなければ、花自体が存在しえない。
「覚」を通じてホアとホアが出い、花は存在している。
「存在」というのは、「覚するもの」と「覚されるもの」が同時存在して初めて「存在」となる。
「覚するもの」と「覚されるもの」が「存在」というものを生み出している。
「覚」とは「存在そのもの・存在の本質」。
ヒマラヤ聖者の言葉とともに起床。
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