■君が他の一切を除外して或る心象や或る観念だけに自分の心を集中すべく、片隅に座って瞑想しているのを私は見てきた。併し君はそれに一度も成功しなかった、他の想念が心中に湧き上がってきては矛盾を来すという風だったのではないかね。
矛盾の中に静けさのある筈がない。
矛盾が止んで始めて静けさはやってくる
■君はもろもろの心象を造り出したがそれは虚妄であって、そんなものは心の彼方に在る唯一の創造力と、無礙自在即ち解き放ちとに導く真の瞑想ではないのである。
■私の瞑想は自分自身を孤立させる単なる一つの形式であり、そのなかで私は種々の個人的な記憶や、理解されることもない色々な個人的体験を後生大事に持って廻っていたのです。
しかしその様な状態に押し込められていた心は死んでいたのです。その事が本当に分かるまではそのような自己限定から解き放ちできる筈のない事が今分かりました。
■本当の瞑想は生命の真実の表現なのだ、然るに君は自分の心を只鈍らせただけなのだ。
■恐怖、咎め、非難、抵抗、比較、それらは我の生き方だからである。この解き放たれた中には矛盾も妄想もない。 この課程(プロセス)の中にこそ本当の瞑想があるのだ。
■瞑想とは、他の我と断絶しているのではなく、全体であり、かつまた、いかなる種類の限定、影響もない真我、を発見することである。そのような体験こそが真の瞑想なのである。
君の自己限定による想念が、『我』の中に始まり『我』の中に終わること、それが繋縛(けいばく)された心の産物であることが分かると、 ここに始めて沈黙がやってくる。
■自分の想念と、その起こり方を知ることと、自分を縛っているものを見究めること、とが叡智の始まりである。 自分自身が何であるかが分かっていなければ瞑想も無意味である。
(解脱の心理より)
瞑想とはバグアンの場合-01
瞑想とはバグアンの場合-02