お前の自覚心は今では自然になったかね?
それを操作する必要はなくなったかね?
それについてお前がどうする
それについてお前が
どうこうする事は無いかな?
それはそこにある…
お前が何をしようが、
それは常にそこにある。
そうなったかね?
それとも
それをそこにあらしめるために
お前はまだ努力しなければならないかね?
もし努力しなければならないのならば、
そこには緊張がある。
そして緊張があるものは当然ながら不自然だ。
不自然な目覚めは本物の目覚めではない。
それは表面だけに留まって、
あなたの内側にはない。
それにもし内側にあるものなら、
努力などする必要はもうと毛頭ない。
私が伝えようとしている事はこれだ。
努力とは常に外面にあるもの。
努力を通して中心に触れることはできない。
![](https://lafonte-jp.com/987/wp-content/uploads/2020/08/努力-1024x683.jpg)
外面的なものごとに何かを成すことができる。
振る舞いや態度は変えることはできるし
いわゆる性格を変えることができる。
外面的には、努力を持ってきてできる。
悪い人間から善人になることもできるし
罪人から言うとこの人となることもできる。
あなたは聖人になることさえできるだろう
外面的には、努力を持ってきて
しかし
努力を持ってしては中心には触れることはできない。
そこまで浸透していくことはできない。
なぜならどんな活動も
あなたにまで導いていく事は無いからだ。
あなたは既にそこにいる!
何かを成す必要は全くない。
あなたはただ沈黙して、
臨機応変であれば良い。
その時に中心が湧き出る。
それは雲の中から出てくるのだ。
そこに裂け目が、
すると隙間ができるのだ。
あなたは突然、
自分の機に応じた自覚心に気がつく。
あなた自身が目覚めなのだ!
それはあなたがなす
何かではない
それはなさなければならない
何かではない。
あなたの感性そのものが目覚めなのだ
(ラジニーシ)